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隔離したまま国民が忘れてしまった

「人間回復」の思いを未来に

~過去、現在そして世界遺産へ~

邑久長島大橋架橋30周年記念シンポジウム

へ行って来ました。



・「国家に勝っても勝った気はせんなぁ」

・「わしが死んだことになっとるとみんなが幸せになる」

・国家権力と国民の無関心が問題


〇石田さん(当事者)

・72年、辛いことの多い72年だった。

・うれしい出来事は昭和33年に厚生省が軽快対象基準を設けたこと。

・社会復帰への門戸が開かれ、いろいろな講習に取り組んだ。

・閉鎖的な療養所に新しい風が吹き込んできた。

・しかし社会との交流は進まなかった。

・海の壁に隔てられ、物理的にも心理的にも社会との交流はままならなかった。

・社会との交流を進めて行くためには「架け橋」が必要、ということになった。

〇山本さん(当事者)

・京都大学で診断を受け、昭和35年に入所した。

・京都大学では治療が実費負担だったので、経済的理由から療養所に入所した。

・2つの団体がワークキャンプに入っていた。

・当時は15畳の部屋に5~6人が入居していた。

・昭和44年に5:30~21:00、船が使えるようになった。

・昭和45年から架橋運動が始まり、47年から2つの療養所が合同で運動を始めた。

〇服部さん(療養所内の金融機関に勤務)

・ハンセン氏病は感染力が強いとされていたため、療養所開設は極秘で進められていた。

・昭和45年まではその地域に住んでいるだけで偏見や差別を受けた。

・療養所で働く職員の子供たちも差別を受けていた。

・週2回、仕事で島へ行っていた。お金は島外へ持ち出す時、消毒していた。

・ふれあいを通して理解しあえる人間関係が出来た。

〇佐藤さん(高校生)

・高校でハンセン氏病について学んでいる。

・当時療養所内に新良田教室(高校の分校)があった。

・職員室には入室禁止。入口にあるベルで先生を呼んでいた。

・プリントや教科書はすべて消毒されていた。

・先生たちは帽子やマスク、長靴で感染予防をしていた。

・事実を語り継ぐ必要がある。語り部にはなれないが、語り継ぐことは出来る。


いいシンポジウムだったな~~~。

「一番大きな罪は隔離したまま国民が忘れてしまったこと」

という一言が一番心に響きました。


障害者福祉にもつながります。


語り継がなければなりません。




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入所施設を考える

今日は朝から

部門連絡会議

設計士さん打合せ

司法書士さん相談

セコムさん打合せ

…とあっという間に一日が終わりました。

久しぶりにデスクで力尽きました。

 

グループホームの宿直回数について、指導がありました。

今後、どのような体制をつくっていくか、

判断と方針が求められています。

重度の人がホームで生活していくことは可能にはなってきましたが、

人員配置を含め、維持していくことの困難さを痛感しています。

4~6人の少人数の暮らしがホームの良さのひとつだったと思いますが、

それはなかなか叶いません。

「効率を考えた結果(某国会議員の発言)」、

10人×2ユニットを打ち出した国の考えにもうなづけます。

 

「地域での生活」と言われ始めて久しいですが、

入所希望もあとを絶ちません。

行政も、そしてなぜか入所先探しまで任されてしまった相談支援専門員も

苦労されていることがほんとうによくわかります。

「65歳を過ぎた障害者は介護保険へ」という流れをつくろうとしていることの意味は

ここにもあるのかもしれません。

 

もう随分むかし、

行動障害のある最重度の知的障害の人が施設入所されることになりました。

お母さんが亡くなられたからです。

「なぜ入所されるんですか?」と聞いたら、

行政は「じゃあ、どうすればいいんですか?」と不快感をあらわにされました。

お父さんは「入所させてください」と懇願されました。

 

夜は家族がみる、

それに代わるものがない限り、入所希望はなくならないと思います。

一方で、当事者である本人も家族も

出来るだけ長く家で過ごすことを希望されます。

「扶養義務」の考え方が根付いた日本の家族制度のもとでは当然かもしれません。

 

毎日のように挙がってくる施設入所や短期入所の相談票を見ながら、

改築や改修をどう進めて行くことが良いのか、

どのような事業展開をしていけば良いのか、

悩み、最終的な定員を決めることが出来ずにいます。

 

即対応が必要なはずの短期入所も「リスク管理」が優先します。

葛藤はありますが、今の時代、避けることが出来ません。

そんな中で、「どうしたら出来るか」を考える、

そして、「入所施設の役割」を大きな視点でとらえることが出来る職員集団を

つくっていきたいです。

 

入所しなければならない理由を一番知っているのは入所施設です。

地域に戻れない理由を一番知っているのは入所施設です。

私たちは入所を引き受けながら、フィードバックしていくことが必要です。

「施設VS地域」という時代(議論)は終わりにしなければなりません。

 

 


長島愛生園

今日は長島愛生園の見学ツアーに参加するつもりでしたが、

申し込みが遅かったので定員(60名)オーバー。

もう3回目までのツアーが埋まっているそうです。


以下5/8、山陽新聞デジタルからの記事です。


「人間回復」邑久長島大橋30年 悲願の架橋運動「隔離なき証し」


 カキいかだが浮かぶ穏やかな海に囲まれた島から1本の橋が伸びている。

 邑久長島大橋―。国立ハンセン病療養所の長島愛生園と邑久光明園がある瀬戸内市沖の長島と本土を結ぶ。「人間回復の橋」と呼ばれ、1988年5月に開通した。

 橋ができるまで長島は孤島だった。対岸まで約30メートルにわたる海はハンセン病元患者が強いられた隔離の象徴であり、社会との間にはその距離だけでは語れない「差別の壁」もあった。

 国は明治時代に患者の隔離を始め、31年制定の旧・らい予防法で強制化した。長島にも家族や古里から引き離された多くの人が押し込められた。断種・中絶手術が行われ、脱出しようとすれば監禁室や監房に入れられた。流れの速い海を泳いで逃げようとして溺死した人もいたという。

 ハンセン病は感染しても発病するのはまれで、戦後間もなく治療薬も開発された。「完治する病気」にもかかわらず、らい予防法は96年まで廃止されなかった。

 「隔離の必要のない証しを」―。両園の入所者は71年から国や岡山県などに対する架橋運動を本格化させた。全長185メートル、歩いて数分で渡れる橋はそれから17年の歳月を費やして完成。「長年の悲願だった。言葉に表せないほどうれしかった」。長島愛生園入所者自治会の中尾伸治会長(83)は当時を振り返る。

 開通により、島外との交流は盛んになり、学校の人権学習などで年間1万人以上が訪れるようになった。社会との懸け橋でもある邑久長島大橋は9日、開通30年の節目を迎える。人権侵害の歴史を伝え、過ちを繰り返させないために、入所者たちの闘いは今も続いている。

浅田訴訟全面勝訴!(65歳問題裁判)

65歳問題と闘っている浅田訴訟のことを知ったのは昨年7月です。

署名を集めていることを「障全協新聞」で知り、

保護者や職員に署名を呼びかけ、協力させていただきました。

それ以降、「支援する会」から裁判に関するお知らせをいただくようになりました。


浅田さんは65歳になる3日前、「介護保険を申請していない」という理由で

毎日平均7時間半の介護をすべて打ち切る処分を受け取りました。

浅田さんは2013年9月19日に提訴。


今日は判決の日で、私も岡山地裁へ出かけてきました。

65歳問題について初めての判決は全面勝訴!


報告集会では浅田さん、弁護団、支援者、全国からかけつけた当事者のみなさん達が

喜びをわかちあいました。


大変な道のりだったと思います。

おめでとうございます。

そして、ありがとうございました!

私もこの判決を糧に、あきらめずに頑張ります!!





(山陽新聞 digitalより)

訪問介護の65歳打ち切りは違法 岡山市に取り消し命令、地裁判決


 65歳を境に、障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)に基づく無償の訪問介護が打ち切られ、介護保険の利用で自己負担が生じたのは不当だとして、脳性まひ患者の浅田達雄さん(70)=岡山市中区=が同市の決定取り消しなどを求めた訴訟で、岡山地裁は14日、原告側の主張をほぼ認め、市に決定の取り消しと慰謝料など107万5千円の支払いを命じる判決を言い渡した。

 支援法は65歳以上の障害者に介護保険の適用を優先する原則を規定しており、原告弁護団によると、この原則の違憲性を問う全国初の訴訟。判決は違憲性の判断にまで踏み込まず、利用者の実情に応じて柔軟に運用するよう自治体に求めた厚生労働省の過去の通知を追認した形となった。

 判決理由で横溝邦彦裁判長は、浅田さんが介助なしでは日常生活が送れない一方で、介護保険の適用に伴って月額1万5千円を自己負担するのは経済上難しい状況だったと指摘。「原告が自立支援法の給付継続を希望したことには理由があり、市はその決定をした上で、納得を得ながら介護保険に関係する申請を勧めたりすべきだった」とし、市の決定を「支援法の解釈・適用を誤った違法なもの」と結論付けた。

 判決では、1人暮らしの浅田さんは月249時間の訪問介護を無償で利用していたが、2013年2月、65歳になるのを理由に打ち切られた。同7月、市から支援法に基づく月153時間の給付を認められたが、残る96時間分の給付は介護保険で受けていた。

 原告弁護団の呉裕麻団長は「裁判所が浅田さんの声に耳を傾けてくれた。全国的にも意義のある判決だ」と評価し、岡山市の大森雅夫市長は「市の主張が認められなかった部分の対応は、関係者や弁護士と協議して検討したい」とのコメントを発表した。

■「生きる権利が保障された」 喜ぶ原告

 65歳を境に障害者自立支援法による無償の訪問介護を打ち切った岡山市の決定を違法とした岡山地裁の判決に、原告の浅田達雄さん(70)らは「生きる権利が保障された」などと語り、喜びをかみしめた。

 同地裁前で弁護士らが勝訴を伝える垂れ幕を掲げると、支援者から拍手と歓声が湧き起こった。

 岡山市内で開かれた報告会で、電動車いすの浅田さんは集まった約120人を前に「判決にほっとした。勝った、勝った」と両腕を目いっぱい突き上げた。弁護団の光成卓明弁護士(岡山弁護士会)は「声を上げられず諦めていた障害者の味方になる判断だ」と判決を評価した。

 同種の訴訟を起こしたり検討したりしている人も駆け付け、千葉地裁で係争中の天海正克さん(68)=千葉市=は「判決に励まされた。頑張りたい」。浅田さんは「障害者が安心して暮らせる社会の実現に向け、これからも全力で戦う」と誓った。

■一律には当てはめないよう通知 厚労省

 65歳に達した障害者を巡る障害者自立支援法と介護保険法の適用に関しては、厚生労働省が2007年3月、「障害者の心身の状況やサービス利用を必要とする理由は多様」として、介護保険優先を基本としつつも一律には当てはめないよう通知している。

 同省による14年8月の全国抽出調査(259自治体が回答)では、介護保険の要介護認定などを申請しないまま、65歳到達後も継続して支援法に基づく障害福祉サービスの利用申請があった場合、78自治体が同サービスの支給を決めた上で引き続き介護保険の申請を呼び掛けていた。同サービスの利用申請を却下したのは、6自治体のみだった。

 同省は15年2月にも、支援法のサービスを一律に打ち切ることがないよう通知。岡山市はこれまでに、個別事情を考慮して同サービスの利用を続けられるよう見直している。岡山地裁で14日に判決が出されたのと同種の訴訟は、千葉地裁でも係争中。

社会福祉士として

社会福祉士資格をとって、基礎研修を受講している友人から

「他業種の社会福祉士の話を聞く」(?)というレポートに

協力をしてほしいとの依頼がありました。


お互いに日程があわないのでメールでということになりました。

オーダーはこんな感じ。


1 今の仕事の内容

2 着任時したいと思ったこと

3 今できたと思うことと課題と思うこと

4 今後取り組みたいこと

いずれも社会福祉士としてです。


この7ヶ月をふりかえって、いろいろ考えた~~~~。

会って話がしたかったけど、良い機会になりました。

ちなみに友人はギョウセイマン(管理職)です。



プロフィール

sanji

Author:sanji
こんにちは。sanjiです。
知的障害者福祉について考えたことあれこれを書いていきます。
よろしくお願いします。

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